小さなこと。


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Brahms,Johannes
1897年4月3日ウィーン没)

ドイツの作曲家。ブラームスの作品にはロマン主義的特質が強く認められるが、
その一方で、伝統的な秩序感覚を保持しながら自己の創作に当たった。
そのためロマン主義の時代において、
楽曲構造の面では古典主義的傾向を持ち続けた人物として位置づけられ、また在命中はドイツ的伝統の本流を真に支える作曲家として定評を得ていた。

1.初期
父方は、ホルシュタインのディトマルシェン地方の農業と手工業を営む家系で、
祖父はペーター・ハインリヒ・ブラームス(1793〜1863)は同地方のハイデという町で宿屋を経営していた。父ヨハン・
ヤーコプ(1806〜72)は、周囲の反対を押し切って一族のなかで初めて音楽の道に入る。まず辻音楽師や舞踏音楽奏者となり、後にコントラバス奏者としてハンブルク市立管弦楽団に入団した。30年6月9日,自分の家政婦ヨハンナ・ヘンリーカ・クリスティアーネ・ニッセン(1865没)と結婚する。彼女は17歳年上で、家柄はよかったものの没落した中産階級の出身であった。

ヨハネス・ブラームスは彼らの第2子である。2年後に生まれた第3子フリッツも音楽家となった。フリッツはベネズエラで一時期音楽教師を務め、1885年11月5日にハンブルクで没している。ヨハネスは最初、父親から音楽の手ほどきを受けたと思われるが、7歳でハンブルクのかなりの名の通ったピアノ教師オットー・F.Eコッセルに師事し、急速にピアノの腕を上げた。43年,公開演奏会に出演して大いに称賛されたときには、アメリカの興行師が天才少年としてアメリカ演奏旅行に連れて行こうとした。しかし、賢明にも師のコッセルがこれを止めた。さらにコッセルは少年がしきりに作曲したがっていることに気づくと、自分の師であるエードゥアルト・マルクスセン(1806〜87)に紹介した。マルクスセンはかつてイグナツ・ザイフリートの弟子であった人物で、ハンブルクでピアニストと作曲家の両面で高く評価されていた。マルクスセンは、46年からヨハネスに音楽理論の指導を始めた。両親の収入はごくささやかなものだったので、少年ブラームスは、公的・私的行事で仕事こあるたびに、父親を音楽家として推薦した。やがて、父も所属している小さなアルスター・パヴィリオン管弦楽団の作曲家兼編曲家として、小規模なアンサンブル向きに音楽を編曲する経験を積むことになった。この仕事は、彼の芸術面での成長を妨げるどころか、音楽効果の感覚を養う一助となり、即興の才能を伸ばすこととなった。

参考資料  ニューグローヴ
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