麗しい詩

 
六月のすずしい夜の
バラの匂いの寂しさ

空がみるみる暗くなって
夕立が降ってくる

私たちもすぐに
行かなくてはいけないの?
どうしていつも
すぐに行かなくてはいけないの?


おはようございます🐶

夏生さんの詩本当に素敵だなと

思います🐻

今日も一日宜しくお願いします🐱


ピアニストとして最初の独奏演奏会を1848年9月21日に、続いて49年4月14日には2度めの演奏会を開いた。その頃は主としてバッハおよびベートーヴェンの作品と、同時代の大家であるタールベルク,ヘルツなどの作品を学んでいた。作曲にも打ち込み、マルクスセンの助言で自作のなかから小品をローベルト・シューマンに送り、批評を仰ごうとした。しかし、これは未開封のまま送り返された。

 1849年の夏、オーストリアとロシアの軍隊がハンガリーに樹立された独立政権を打倒した。独立運動の参加者たちは北アメリカへ亡命途上に続々とハンブルクを通り、中には同地にとどまる者もいて、ハンブルクハンガリーの音楽を持ち込んだ。革命派への同情と商売上の思惑が相まって、音楽に限らずハンガリー風のあらゆるものが大流行した。こうしてブラームスは、いやおうなく「チャールダーシュ」やジプシー風の「アラ・ツィンガレーゼ」様式ーこれらをドイツ人は、ハンガリー本来の民俗音楽であると誤解していたーを知るようになった。ともかくも芸術上の修養の初期の段階で、変則リズムの風変わりな音楽世界や3連音符型の感覚に触れたことは、後年の彼の作品に非常に大きな影響をもたらすことになるのである。亡命者のなかには、こうした音楽の最も重要な演奏家の一人,ハンガリーのヴァイオリニストのニードゥアルト・ホフマン(1828〜98)がいた。レメーニ(「ホフマン」に相当するハンガリー名)の名で知られる彼はウィーンで学び、50年にはハンブルクで演奏会を開いている。17歳のブラームスはこのとき深い感銘を受けた。レメーニは3年後にアメリカから戻ると、ブラームスに伴奏者として演奏旅行に同行するよう勧めた。こうして、彼はレメーニからじかにアラ・ツィンガレーゼの演奏会と合奏でのルバートの使用法とを学ぶことになった。

 2人はまず、ハノーヴァーとゲッティンゲンを回り、ハノーヴァーでブラームスはヨーゼフ・ヨアヒムと知り合う。彼はたちどころにブラームスのたぐいまれな創造力を見抜き、生涯にわたる2人の友情が生まれた。ブラームスはその後,レメーニとともにワイマールへ旅を続け、同地のアンテンブルクでリストの歓待を受けた。そこに6週間滞在したが、このころにはすでに自分の音楽世界が、リストや「新ドイツ楽派」の追求する芸術とは全く正反対にあることを実感するようになっていた。ここでレメーニと別れ、ヨアヒムの助言に従ってデュッセルドルフシューマン夫妻を訪ねた。かねてからブラームスは芸術の理想を体現しているシューマンを見習おうとしていたが、ついに1853年9月30日,2人の記念すべき会見が実現した。シューマンブラームスの作品と卓越したピアノ演奏に深い感銘を受け、<<Neue Zeit-schrift fur Musik
(新音楽時報)>>に「新しい道Neue Bahnen」と題する有名な予言的エッセイを書いてこの「若鷲」に敬意を表した。

公開の前へ出ればお世辞や激励を受けるのが当たり前になっていたが、シューマンのように権威ある人物に認められたことは、ブラームスにある種の義務感を覚えさせ、さらにはそれが重荷となって、彼はハンブルクへ帰郷した。だが、翌年2月、シューマン精神障害で投身自殺を企てたと聞くと、一家に対する友情からデュッセルドルフへ戻り、彼らを助けた。この訪問を機会に、14歳年月であるクラーラ・シューマンへの献身が、ロマンティックな情熱へと変わっていった。1856年7月29日にローベルト・シューマンが没した後、ブラームスはクラーラへの実らぬ淡い恋心を抱くようになり、はからずともクラーラ演じるシャルロッテに対してヴェルテルの役を演じていた,と後年,慎重に言葉を選びながらその時期のことを述べている。彼は最初、
作曲技法の研究に没頭していたが、翌年にはクラーラに対し、はっきりと愛を告白した。57年9月、クラーラがベルリンの母親の家に引っ越すと,ブラームスハンブルクへ戻った。その後数年は同地で暮らすはずであったが、その間に、デトモルトで4ヶ月を過ごし(翌年と翌々年の秋にもデトモルト訪問を繰り返している)、宮廷ピアニスト、室内楽奏者、宮廷合唱団指揮者を務めた。また、およそ45人から成る宮団オーケストラを指揮する機会も多く、そこで管弦楽法の基本を学んだ。その成果が2曲の管弦楽のための<セレナード>第1番op.11と第2番op.16となって現れる。58年の3月と4月は、クラーラ・シューマンと再会するためにベルリンで過ごすが、その年の夏、ゲッティンゲンで、同地の大学教授の娘アガーテ・フォン・ジーボルトと出会って恋に落ち、真剣に結婚を考える。この恋愛は実を結ばなかったが、クラーラに対する激情から抜け切るうえでは力となり、またアガーテからインスピレーションを得て、ブラームスは民謡様式の歌曲op.11,op.19,op.20をはじめ、幾つかの深みのある作品を書いた。後には弦楽六重奏ト長調op.36第1楽章の第2主題群にA-G-A-(T-)H-Eの音型を3回入れ,彼女の名が確実に後世に残るようにしている。

参考文献 ニューグローヴ

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