orff,carl


おはようございます🍀

平日の夜に中々記事が書けなく,

音楽の方をおさぼりしていました。

平日も終わって気が休めた事もあり,


について書きました。

良かったら読んでみて下さい。

今日も一日宜しくお願いします。



2.ハンブルク時代 1859〜62年

1858年,ブラームスはピアノ協奏曲二短調op'15を完成したが、これはすでに54年に作曲に着手して以来、何度も書き換えてきたものである。この曲が59年1月22日に作曲者自身のピアノによりハノーヴァーで初演された。批評家には好意をもって迎えられたが、5日後にライプツィヒで再演したところ、聴衆はみな若きヴィルトゥオーソを熱心に待ち受けていたにもかかわらず、ひどい不評に終わった。しかし、父親がコントラバスを弾き、家族が1階特等席に座った,60年3月24日のハンブルク初演では,青年作曲家は個人的にも,また経済的にも,かなりの成功を収めることができた。このとき,彼が芸術家としての未来を夢見たのはもっともなことであるが,音楽界の有力組織の支持を得ないまま自ら選んだこの道を進むことが,どんなに困難であるかにはまだ気づいていなかった。

オルフ,カール
orff,carl
(1895年7月10日ミュンヘン生,1982年3月29日ミュンヘン没)

(1937)によって,一躍有名になった。
続く一連の舞台作品では,最初の成功によって開けた可能性をさらに拡大した。
オルフは,古代の悲劇とバロック音楽,バイエルン地方の農民生活とキリスト教の神秘にモデルを求め,野蛮ではあるものの強烈な印象を与える音楽劇を確立した。なお,彼が開発した児童のための教材は広く使われている。

1,生涯
バイエルンの軍人の旧家に生まれ,ピアノ,オルガン,チェロを習い,少年の頃から歌曲の作曲を始めた。ミュンヘン音楽アカデミーではベーアーヴァルブルンとツィルヒャーに師事し,1914年に卒業する。オーケストラのための<踊る牧神
Tanzende Faune>とオペラ<犠牲Gisei>など,この時期の作品はドビュッシーの影響を示していたが,すぐにシェーンベルク,シュトラウス,プフィッツナーの影響がみられるようになる。
15〜17年にミュンヘン小劇場,
18〜19年にマンハイム国立劇場ダルムシュタットの州立劇場のカペルマイスターを務め,この間の17〜18には兵役に服している。19年にミュンヘンに戻り,音楽を教える一方で,20年には自身もカミンスキに師事している。24年,ドロテー・ギュンターとともに,体操,音楽,舞踊のためのギュンター学校をミュンヘンにさ設立した。これは,体の動きと音楽との新たな関係を探り,教授するための機関であった。ここでの活動がきっかけで
<オルフ学校用作品Orff-Schulnerk>に着手し,その第1部は30年に出版された。

1930年から33年までオルフはミュンヘン・バッハ協会の指揮者を務め,古楽の編曲を行った。<ルカ受難曲St Luke Passion>はバッハの偽作であるが,31年に舞台版が上演されている。25年にはモンテヴェルディの3つの作品を舞台用に改作しており,この種の仕事の成果は,37年にフランクフルト・アム・マインで上演された<カルミナ・ブラーナ>の作曲に集約されている。第2次世界大戦中もオルフはドイツにとどまっていたが,十分に活動を展開できたのは45年以降のことである。その後は古典的,形而上的な主題を持つ一連の音楽劇を続々と作曲し,その大部分はザルツブルク音楽祭シュトゥットガルト国立劇場で上演された。50年から55年まではミュンヘン国立音楽大学で作曲を教えている。55年にテュービンゲン大学から,72年にミュンヘン大学から名誉博士号を援与され,またバイオリン芸術アカデミーの会員であった。

ニューグローヴ

f:id:asamizurika:20150613055033j:image