夏の花々


朝に撮った花を加工して載せますね🍀

泰山木の花は

花言葉も美しいです。

「前途洋々(今後の人生が大きく開けて 

   いて)」 「希望に満ちあふれている」

  「壮麗(大きく立派で美しい)」

   「威厳をつける」

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紫陽花の花言葉

「移り気」 「高慢」 「辛抱強い愛情」

 「元気な女性」 「あなたは美しいが

  冷淡だ」 「無情」 「浮気」

 「自慢家」 「変節」

 「あなたは冷たい」

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酔仙翁の花言葉

「いつも愛して」 「ウイット」

 「機智」 「名誉」

お花の名前間違えていたら、

ごめんなさい。

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まだ咲き途中のお花。

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「美しい人」

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心に残る人


自分があそこにいたんだと
気づいた時には もう
そこにはいない

ふりかえることができるのは
そこを通りすぎたから


おはようございます🍊
 
どんな時であれ支えてくれる人は

わずかながら居ます。

ふりかえった時に、

「一緒に居てくれてありがとう。」

ととても感謝する事ができます。

さよならをしても心に滞在

しているんですね🐱

そんな毎日を

過ごして生きたいですね🌷

今日も一日明るくいきましょう✌️




2.ハンブルク時代 1859〜62年

1859年,ブラームスハンブルクに落ち着き、同年に女声合唱団を設立する。これは必要に応じて40人まで増員できるもので、彼がハンブルクを去るまで存続した。彼はこの女声合唱団やもっと小規模な12人の女声合唱のために、民謡を編曲したり、新しく作曲したりした。60年4月30日には戯れに古くさい規則を組み込んだ一連の作品をこの合唱団に歌わせている。その様式からは、音楽理論に関するマッテゾンの古い論文を、自ら市立図書館で熱心に研究したことがうかがわれる。61年1月15、16日と11月16日の3回にわたり、クラーラ・シューマンハンブルクの演奏会に各演した際には、このブラームスの女声合唱団の一部の団員が共演している。彼はこのグループとの交わりを楽しんではいたが、グループとともに行う演奏活動や、そのための編曲作品(その大半は散逸)にはほとんど重要性を認めていなかった。後になって、何曲かのオリジナル作品を改訂して、<12の歌曲とロマンス zwolf Lieder und Romanzen>op.44として出版したほか、さらに94年には幾つかの作品をピアノ伴奏付き独唱用に書き改めている。

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麗しい詩

 
六月のすずしい夜の
バラの匂いの寂しさ

空がみるみる暗くなって
夕立が降ってくる

私たちもすぐに
行かなくてはいけないの?
どうしていつも
すぐに行かなくてはいけないの?


おはようございます🐶

夏生さんの詩本当に素敵だなと

思います🐻

今日も一日宜しくお願いします🐱


ピアニストとして最初の独奏演奏会を1848年9月21日に、続いて49年4月14日には2度めの演奏会を開いた。その頃は主としてバッハおよびベートーヴェンの作品と、同時代の大家であるタールベルク,ヘルツなどの作品を学んでいた。作曲にも打ち込み、マルクスセンの助言で自作のなかから小品をローベルト・シューマンに送り、批評を仰ごうとした。しかし、これは未開封のまま送り返された。

 1849年の夏、オーストリアとロシアの軍隊がハンガリーに樹立された独立政権を打倒した。独立運動の参加者たちは北アメリカへ亡命途上に続々とハンブルクを通り、中には同地にとどまる者もいて、ハンブルクハンガリーの音楽を持ち込んだ。革命派への同情と商売上の思惑が相まって、音楽に限らずハンガリー風のあらゆるものが大流行した。こうしてブラームスは、いやおうなく「チャールダーシュ」やジプシー風の「アラ・ツィンガレーゼ」様式ーこれらをドイツ人は、ハンガリー本来の民俗音楽であると誤解していたーを知るようになった。ともかくも芸術上の修養の初期の段階で、変則リズムの風変わりな音楽世界や3連音符型の感覚に触れたことは、後年の彼の作品に非常に大きな影響をもたらすことになるのである。亡命者のなかには、こうした音楽の最も重要な演奏家の一人,ハンガリーのヴァイオリニストのニードゥアルト・ホフマン(1828〜98)がいた。レメーニ(「ホフマン」に相当するハンガリー名)の名で知られる彼はウィーンで学び、50年にはハンブルクで演奏会を開いている。17歳のブラームスはこのとき深い感銘を受けた。レメーニは3年後にアメリカから戻ると、ブラームスに伴奏者として演奏旅行に同行するよう勧めた。こうして、彼はレメーニからじかにアラ・ツィンガレーゼの演奏会と合奏でのルバートの使用法とを学ぶことになった。

 2人はまず、ハノーヴァーとゲッティンゲンを回り、ハノーヴァーでブラームスはヨーゼフ・ヨアヒムと知り合う。彼はたちどころにブラームスのたぐいまれな創造力を見抜き、生涯にわたる2人の友情が生まれた。ブラームスはその後,レメーニとともにワイマールへ旅を続け、同地のアンテンブルクでリストの歓待を受けた。そこに6週間滞在したが、このころにはすでに自分の音楽世界が、リストや「新ドイツ楽派」の追求する芸術とは全く正反対にあることを実感するようになっていた。ここでレメーニと別れ、ヨアヒムの助言に従ってデュッセルドルフシューマン夫妻を訪ねた。かねてからブラームスは芸術の理想を体現しているシューマンを見習おうとしていたが、ついに1853年9月30日,2人の記念すべき会見が実現した。シューマンブラームスの作品と卓越したピアノ演奏に深い感銘を受け、<<Neue Zeit-schrift fur Musik
(新音楽時報)>>に「新しい道Neue Bahnen」と題する有名な予言的エッセイを書いてこの「若鷲」に敬意を表した。

公開の前へ出ればお世辞や激励を受けるのが当たり前になっていたが、シューマンのように権威ある人物に認められたことは、ブラームスにある種の義務感を覚えさせ、さらにはそれが重荷となって、彼はハンブルクへ帰郷した。だが、翌年2月、シューマン精神障害で投身自殺を企てたと聞くと、一家に対する友情からデュッセルドルフへ戻り、彼らを助けた。この訪問を機会に、14歳年月であるクラーラ・シューマンへの献身が、ロマンティックな情熱へと変わっていった。1856年7月29日にローベルト・シューマンが没した後、ブラームスはクラーラへの実らぬ淡い恋心を抱くようになり、はからずともクラーラ演じるシャルロッテに対してヴェルテルの役を演じていた,と後年,慎重に言葉を選びながらその時期のことを述べている。彼は最初、
作曲技法の研究に没頭していたが、翌年にはクラーラに対し、はっきりと愛を告白した。57年9月、クラーラがベルリンの母親の家に引っ越すと,ブラームスハンブルクへ戻った。その後数年は同地で暮らすはずであったが、その間に、デトモルトで4ヶ月を過ごし(翌年と翌々年の秋にもデトモルト訪問を繰り返している)、宮廷ピアニスト、室内楽奏者、宮廷合唱団指揮者を務めた。また、およそ45人から成る宮団オーケストラを指揮する機会も多く、そこで管弦楽法の基本を学んだ。その成果が2曲の管弦楽のための<セレナード>第1番op.11と第2番op.16となって現れる。58年の3月と4月は、クラーラ・シューマンと再会するためにベルリンで過ごすが、その年の夏、ゲッティンゲンで、同地の大学教授の娘アガーテ・フォン・ジーボルトと出会って恋に落ち、真剣に結婚を考える。この恋愛は実を結ばなかったが、クラーラに対する激情から抜け切るうえでは力となり、またアガーテからインスピレーションを得て、ブラームスは民謡様式の歌曲op.11,op.19,op.20をはじめ、幾つかの深みのある作品を書いた。後には弦楽六重奏ト長調op.36第1楽章の第2主題群にA-G-A-(T-)H-Eの音型を3回入れ,彼女の名が確実に後世に残るようにしている。

参考文献 ニューグローヴ

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小さなこと。


私たちは偉大なことはできません。
偉大な愛で小さなことをするだけです。

おはようございます🐱

今日も一日宜しくお願いします🌷

Brahms,Johannes
1897年4月3日ウィーン没)

ドイツの作曲家。ブラームスの作品にはロマン主義的特質が強く認められるが、
その一方で、伝統的な秩序感覚を保持しながら自己の創作に当たった。
そのためロマン主義の時代において、
楽曲構造の面では古典主義的傾向を持ち続けた人物として位置づけられ、また在命中はドイツ的伝統の本流を真に支える作曲家として定評を得ていた。

1.初期
父方は、ホルシュタインのディトマルシェン地方の農業と手工業を営む家系で、
祖父はペーター・ハインリヒ・ブラームス(1793〜1863)は同地方のハイデという町で宿屋を経営していた。父ヨハン・
ヤーコプ(1806〜72)は、周囲の反対を押し切って一族のなかで初めて音楽の道に入る。まず辻音楽師や舞踏音楽奏者となり、後にコントラバス奏者としてハンブルク市立管弦楽団に入団した。30年6月9日,自分の家政婦ヨハンナ・ヘンリーカ・クリスティアーネ・ニッセン(1865没)と結婚する。彼女は17歳年上で、家柄はよかったものの没落した中産階級の出身であった。

ヨハネス・ブラームスは彼らの第2子である。2年後に生まれた第3子フリッツも音楽家となった。フリッツはベネズエラで一時期音楽教師を務め、1885年11月5日にハンブルクで没している。ヨハネスは最初、父親から音楽の手ほどきを受けたと思われるが、7歳でハンブルクのかなりの名の通ったピアノ教師オットー・F.Eコッセルに師事し、急速にピアノの腕を上げた。43年,公開演奏会に出演して大いに称賛されたときには、アメリカの興行師が天才少年としてアメリカ演奏旅行に連れて行こうとした。しかし、賢明にも師のコッセルがこれを止めた。さらにコッセルは少年がしきりに作曲したがっていることに気づくと、自分の師であるエードゥアルト・マルクスセン(1806〜87)に紹介した。マルクスセンはかつてイグナツ・ザイフリートの弟子であった人物で、ハンブルクでピアニストと作曲家の両面で高く評価されていた。マルクスセンは、46年からヨハネスに音楽理論の指導を始めた。両親の収入はごくささやかなものだったので、少年ブラームスは、公的・私的行事で仕事こあるたびに、父親を音楽家として推薦した。やがて、父も所属している小さなアルスター・パヴィリオン管弦楽団の作曲家兼編曲家として、小規模なアンサンブル向きに音楽を編曲する経験を積むことになった。この仕事は、彼の芸術面での成長を妨げるどころか、音楽効果の感覚を養う一助となり、即興の才能を伸ばすこととなった。

参考資料  ニューグローヴ
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梅雨対策。



世に生を得るは事を成すにあり。


おはようございます🐶
本日も宜しくお願いします。

梅雨の時は、

🍒気分にあった色と香り

🍒入浴に炭酸

🍒目を冷やす

友達に頂いたハンドクリームと
オーガニックのリップクリームを
活用していきます🐱

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STARBUCKS


成功を金銭で測ることはできない。
どのように人生の旅をし、
人間としてどれだけ成長したかが
問われるのだ。

私は

お店回りを大切にしていただけでなく、

それ自体がとても好き。やはり、

火花の散る瞬間を見ているのは、

とても楽しいし、ときに感動的です。

MISSION 第3章 スターバックスはコーヒーを売っているのではない
日本のスターバックスがアメリカを
超えたと感じた瞬間 岩田松雄

おはようございます。

昨日はMISSIONを読んでいて、

ときに感動的です。という言葉に

感動してしまいました(;_;)

郵便局にも行ったのですが、

開店初めのお客だった事もあり、

「いらっしゃいませ! 」と

働いている人達全員が横に並び

元気に挨拶してくれたのも、

昨日の感動でした♪

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初心に戻る

鬱積した詩の泉が滾々と、

つきることなく湧き出でた時代、

霧が世界を蔽いかくし、

花の蕾が来るべき奇蹟を約束し、

また谷という谷に豊かに咲きみちた

千の花々を私が手折ったあの時代を。

私はなんにも持っていなかったが、
それでも、

真理への欲求と、錯覚を喜ぶ心とで満ち足りていた。

どうか私にあの不羈なるままの衝動を、

深い、悩みに満ちた幸福を、

憎しみの念力と愛の威力とを、

私の青春を、とりもどしてください。

ファウスト 第一部 舞台の前曲 詩人

おはようございます🌺

今朝ベージュの色を見て👀

赤ちゃんの持つ優しい匂いがしました。

視覚も嗅覚も人それぞれなので、

様々な連想なんでしょう♻️

産まれてきた時に持ち合わせたものを

大切にしたいですね🌱

本日も宜しくお願いします 🌳